秋の深まりと応呼するように、全国の真宗寺院では報恩講がお勤まりになります。報恩講は、宗祖親鸞聖人を偲ぶ浄土真宗で最も大切な法要であります。その報恩講でよくお勤めされますのが善導大師が作られた『往生礼讃』で、正式には『勧一切衆生願生西方極楽世界阿弥陀仏国六時礼讃』という長い名前がついています。
この六時とは「日没・初夜・中夜・後夜・晨朝・日中」のことで、
1.『大経』の弥陀の十二光の名を讃歎して十九拝、「日没」の時に当りて礼す。
2.『大経』によりて要文を採集して二十四拝、「初夜」の時に当りて礼す。
3.龍樹菩薩の願往生礼讃の偈(十二礼)によりて十六拝、「中夜」の時に当りて礼す。
4.天親菩薩の願往生礼讃の偈(浄土論)によりて二十拝、「後夜」の時に当りて礼す。
5.彦琮法師の願往生礼讃の偈によりて二十一拝、「晨朝」の時に当りて礼す。
6.沙門善導の願往生礼讃の偈、つつしみて十六観によりて二十拝を作る。午時(「日中」)に当りて礼す。
と記され、一日を六時に分かち、上記の聖教から御文を抄出して十九拝~二十四輩の敬虔な礼拝を勧められています。
江戸時代の延宝九年(1681)に浄土宗西山派にて編纂された礼讃本『蓮門課誦(れんもんかじゅ)』には、六時の標号の下に、例えば「日没礼讃 展具十九拝」と記されています。「展」は「平らに広げる」意味があり、「具」は座具(礼拝のための敷物)のことでありますから、「日没礼讃を修する時は座具を広げて十九拝せよ」と指示されているのです。『日没礼讃』は「南無釈迦牟尼仏等…」から始まり「南無西方極楽世界大勢至菩薩」まで「南無」が十九回出てきますから、行者は「南無」の度に、広げた座具の上で十九回の五体投地礼(両手・両膝・額を地面に投げ伏すもっとも丁寧な礼拝)を行うのであります。まさしく「礼讃」と呼ばれる所以がここにあります。
ところで、『往生礼讃』のもう一つの大切な特徴は、「懺悔(さんげ)」であります。「懺悔」とは、「自らがなした罪過を悔いて許しを請うこと」で、阿弥陀如来の尊前で、自身の身・口・意(しんくい)の三業を悔い改め、その滅罪を請う行法をいいます。『往生礼讃』の前序には、もっとも略した「要」から「略」、そして丁寧な「広」の三種類の懺悔を挙げて、六時それぞれに行者の意に従い、要・略・広のいずれかを用いるように規定されます。そのもっとも丁寧な「広懺悔」の前には、「三品の懺悔」を示され、
・上品の懺悔…身の毛孔のなかより血流れ、眼のなかより血出づる懺悔
・中品の懺悔…遍身(へんしん)に熱き汗、毛孔より出で、眼のなかより血流るる懺悔
・下品の懺悔…遍身徹(とお)りて熱く、眼のなかより涙出づる懺悔
そして「知るべし、流涙・流血等にあたはずといへども、ただよく真心徹到するはすなはち上と同じ。」と善導大師は結ばれています。
これを受けて、親鸞聖人はご和讃に、「真心徹到するひとは 金剛心なりけれは 三品の懺悔するひとゝ ひとしと宗師はのたまへり」と、真実信心を得る人は、三品の懺悔をする人と等しいと善導大師は仰っておられますと讃嘆されるのでした。
このように『往生礼讃』は、「礼拝」と「懺悔」の2つの大きな柱から構成されている浄土儀礼音曲でありました。しかし、一般には『往生礼讃』の音楽的魅力のみが話題となり、敬虔な「礼拝」と「懺悔」についてあまり語られていないことが少々残念です。
2015年11月11日