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往生礼讃

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『往生礼讃(おうじょうらいさん)』は、『六時礼讃』または単に『礼讃』とも呼ばれ、中国の高僧善導大師(ぜんどうだいし613年-681年)が制作された極楽浄土へ往生を願う儀礼です。そこには、極楽浄土へ生まれたいと願う行者が、一日に修すべき儀礼を六時、具体的には日没(にちもつ)、初夜(しょや)、中夜(ちゅうや)、後夜(ごや)、晨朝(じんじょう)、日中(にっちゅう)に分けて示されています。その六時を現在の時刻に相当しますと、午後4時、8時、正子、午前4時、8時、正午となります。この六時の『礼讃』ではまず最初に、経典などの御文を引用しながら、「南無して心を至(いた)し帰命して、西方の阿弥陀仏を礼したてまつる」という丁重な礼拝を16回から24回繰り返します。続いて「心を至して懺悔(さんげ)す」と諸々の罪を滅することを願う懺悔を行います。この懺悔にも、略式の懺悔から丁重な懺悔まで3種類を定められます。このように、『往生礼讃』では、礼拝と懺悔を中心に敬虔な往生を願う儀礼が展開していきます。

さて、この『往生礼讃』が何時頃中国から日本へ伝わったかは定かではありませんが、日本の歴史の中で多く語られるようになるのは、平安末期から鎌倉時代にかけてです。浄土宗の開祖法然聖人が、京都東山の吉水で専修念仏を広められていたとき、その弟子の住蓮上人や安楽上人による『往生礼讃』が、京都の町人に大変人気が博していました。そして、宮中に仕える松虫と鈴虫という姉妹の女官もその『往生礼讃』に心を寄せていました。そして、後鳥羽上皇が紀州熊野に参拝の留守中、とうとう宮中を出て吉水の草庵で出家を願い出たのです。当初、両上人は出家を認めませんでしたが、両姫の真剣な懇願に、ついには出家を許されます。熊野より戻りその事実を知った後鳥羽上皇は、激怒し、住蓮上人や安楽上人は打ち首、法然聖人や親鸞聖人を流罪にしました。これを、「承元の法難(じょうげんのほうなん)」といい、歴史上大変厳しい宗教弾圧が行われたのです。

『往生礼讃』が法然聖人門下の中で盛んに称えられていた頃、『如法念仏(にょほうねんぶつ)』という美しい聲明で念仏を唱える法要もよく行われていました。その当時の『如法念仏』の古本に、『如法念仏』が終わった後、僧侶達はお堂を出た所で、その時刻に合わせた『礼讃』を唱えよとの指示が書かれています。この『如法念仏』も善導大師が定められた法要形式で、行道(阿弥陀如来の回りを聲明を唱えながら巡る)を行いますので、行道ができる専用のお堂で修されていたことでしょう。そのお堂には、一般の人々が参拝する場所はありませんので、『如法念仏』も僧侶だけで修されていました。しかし、それが終わった後、わざわざ出堂してから『往生礼讃』を唱えたということは、堂前には多くの大衆が集まっていたからではないかと考えられます。当時それが大変流行していたことから考えても、集まっている多くの大衆の為に『往生礼讃』を唱えたと考えられます。それは、即興的な簡単な旋律であったとも言われていますので、おそらく集まった大衆も僧侶が唱える『往生礼讃』に合わせて、口ずさみ、共に唱えていたとも想像できます。堂内の阿弥陀仏に対して敬虔な礼拝をくり返しながら『往生礼讃』を唱える僧侶。その姿を見ながら大衆も唱える『往生礼讃』は、多くの人々の心を掴み、極楽浄土への憧憬を育てていったことでしょう。ここに、本願寺派勤式(ほんがんじはごんしき)の大切な目的とされている大衆唱和の萌芽があると言えます。