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木魚(もくぎょ)について

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『まんが日本昔ばなし』の中に、「木魚のもと」というお話があります。少しご紹介しましょう。
昔ある寺に和尚さんと小僧さんが住んでいました。小僧さんは早く良いお坊さんになりたくて毎日一生懸命お経の練習をしました。ある日、海辺の崖の上でお経を読んでいるとき、お経の本が風に飛ばされ、それを取ろうとしてうっかり海に落ちて亡くなってしまいました。悲しんだ和尚さんは、小僧さんの墓を作り、そこに木を一本植えて毎日その墓に向かって経を読みました。その木はだんだん大きくなったのですが、ある日大嵐が来て木はばったりと倒れてしまいました。海で死んだ小僧さんはもう魚に生まれ変わっていると思った和尚さんは、その木を魚の形に彫り、これからもお経を教えてやるぞと言って、それをぽんぽんと優しく叩きながら経を読みました。いつの頃からか、人々はその魚の彫り物を「木魚」と呼び、和尚さんと小僧さんの深いつながりを語り伝えたということです。

木魚の「ポクポク」という愛嬌がありながらもなんとなく哀愁のある音から、このような話が生まれたのでしょうか。この木魚は多くの仏教宗派で、お経を読む際のリズムを取るために昔から使われてきました。一般の人々には、最も馴染みのある仏具といってもいいかも知れません。しかし、浄土真宗では木魚を使うことはありません。何故でしょうか…。

さて仏具の中には、木魚や魚板(ぎょばん:魚の形をした木板で、これを打って時間や行事を報知する)などのように、魚をモチーフにしたものがあります。中国の古伝には、魚は夜寝るときも目を開けているので、仏道修行者は魚のように寝る間を惜しんで修行するよう戒めのために魚の形を用いるとあります。

ところで、浄土真宗の御本尊である阿弥陀如来という仏様は、寸暇を惜しんで修行に励むことなど到底出来ない私、それどころか仏道修行などには関心を持たない私であることを見抜いておられる仏様でした。つまり、ついつい怠け心をおこし、苦悩の解決を仏道に求めようとはしない私であることを十分ご承知の仏様ということです。だからこそ、本来私が行ずべき修行の徳をすべて「南無阿弥陀仏」という六字の言葉(お念仏)に摂めて私に与え、仏道を歩む大切さを絶えず知らせてくださっているのです。ここに、修行を励み悟りを目指す仏道ではなく、阿弥陀如来のはたらきで万人が救われる教えがあきらかになりました。そのような理由で、浄土真宗では修行を励む象徴である魚(木魚)を用いてこなかったのではないかと考えられのるです。

江戸時代の大谷派の学僧である賢蔵和上は、「浄土真宗にも木魚があるぞ」とされ、「遠い遠い昔より我が身に備わる三毒の煩悩(貪欲・瞋恚・愚痴)、五欲(食欲、財欲、色欲、名誉欲、睡眠欲)の大木魚、腹が立てばそれを叩いて南無阿弥陀仏、欲が起こればそれをご縁に南無阿弥陀仏、いつでも、どこでも、お念仏申すばかりである」と仰ったと伝えられています。

浄土真宗の読経では木魚を使いませんが、お念仏(南無阿弥陀仏)は、私の心に宿る煩悩を「ポクポク」と叩いてくださっているのでした。
以上